車窓

大学に通っていた頃、私は電車通学をしていた。

 

ある日、夕暮れがとても美しく、車窓から西の空をうっとりと眺めていた。

「ああ、世界の終わりのような夕暮れだなあ」

思った矢先、四人席に座っていたおばちゃん二人が言った。

「明日もきっといい天気になるわね」

 

はっとした。

私はこの世の終わりを思い、彼女らは明日を思う。

この違いは何なのだ。

私の抱くこの終わりに向かう気持ちはどうなっているのだ。

 

きっと、彼女らの方が多数派で、正しい。

きっと、私の方が歪んでいる。

でも、どちらも間違ってはいない。

 

私は歪んだこの終わりに向かう気持ちを抱いて生きていくのだろう。

 

 

 

そんな歪んだ決心を思い起こさせた今日の夕暮れ。

ドーパミン

日常に潜む小さな幸せと

非日常に顔を出す大きな幸せ。

 

心地よい音楽。声。会話。文章、言葉。眠り。

美味しい食事。紅茶。ジンジャーエール。少しのお酒。

臨時収入。入浴。

 

旅行。誰かと猛烈に通じ合う時。愛を得ること。

 

 

大きいから素晴らしいということもなく、

小さいから無駄ということもない。

 

それなのに、大きい幸せを求めて、悲しい気持ちになったり、

小さい幸せの小ささに「なんてちっちゃい」と嘆いたりして、

幸せを感じられなくなるようではドーパミンは分泌されなくなってしまう。

 

 

眉間

眉間

 

  

男は下手な誘いで女を誘う。女は下手な誘いと知りながらそれに乗ることにしていた。

 

男と女は焼き鳥屋に入った。二人が時折、通っている店だった。

その日は、ビールが飲みたい喉だった。

 

その日に限って、店内はとても賑わっていた。

「みんな、ビールが飲みたい喉なんかな」と男が呟く。

「そうかもね」と女も呟いた。

 

男は座敷を好んだ。女はそれに従った。

隣には、すだれ一枚で会社帰りのサラリーマン達が既に酔い、大きな声で話していた。

男はその声に眉をひそめた。

 

女は気がそぞろだった。 

男は笑いというものにとても厳しい。笑いというよりは、不愉快な現象について厳しかった。大きな声で語る彼らの話に不快感を抱いていることは間違いなかった。

 

「何が面白いんやろなあ」

大声で盛り上がる隣の座敷を横目に男は呟いた。

 

サラリーマン達は先日の飲み会で飲みすぎた帰り道、終電を逃した上、いつもならばどこかに泊まるのに、酔いすぎて訳が分からなくなり、家までタクシーで帰り、妻に叱られたという話をしていた。

「ビールがね、ビールがですよ!」

 

女はそっと指摘した。

「眉間に不快感が漂ってますよ」

 

男は言う。

「世の中の出来事はね、面白いことと面白くないことで構成されているんですよ」

女は頷く。

「でね、その面白くないことっていうのは不愉快なことなんですよ」

男は続ける。

「面白いやつ、ちょっと面白いやつ、普通、面白くないやつ、絶望的に面白くないやつ。これをね、分けて行く時にね、面白くないやつ以下には罪な名前をつけたらいいと思うんですよ。そうするとね、面白くないやつは奮い立つと思うんです」

「面白くないやつっていうだけじゃなくて、もっと酷い名前を付けると嫌でも奮い立つでしょ」

 

その間にも、隣のサラリーマン達は順調に男にとっての不愉快さを増していた。

 

「そのやり方はね、パワハラやって言われたんですよ!パワハラやって言われたんですよ!」

 

女は内心ひやひやしていた。

男は目を瞑り、その不愉快さに耐えながら、ぼそっと呟いた。

「面白くないですね」

 

女は飲み物をストローでかき混ぜることで気を紛らせていた。

男の眉間にだんだんと不愉快さが刻まれていくようで、時折男の表情を見ては、不愉快さが眉間に表れていることを指摘した。その度に男は苦笑いを浮かべ、眉間をさすった。

 

女は男に不愉快だと思われることを恐れていた。何よりも自分にその不愉快さを向けられることが怖かった。女はなるべく小さな声で男が不愉快にならないように話をした。

果たして、男と女の会話が愉快だったのかどうかは定かではない。

 

いつになく早い時間に男が席を立ち、「もう行こか」と言った。

 

女は安堵に近い感覚で席を立った。

サナギ

蝶になるために幼虫はたくさんの養分を体にしっかりと蓄える。

そして、サナギとなる。

サナギは表皮1枚で一旦ドロドロになり、蝶になるための再形成を行う。

 

サナギは硬くなったまま、羽化の時を待っているものだと思っていた。

外からは見て分からない、大きな変化を遂げていることに、ひどく心を動かされた。

 

そして、サナギは美しいキアゲハになっていた。

誰にも見守られることなく、ひっそりと。

スイミング

お仕事で、子どもたちがスイミングスクールに参加するのに付き添う。

プールサイドで高温多湿で朦朧となりながら、子ども達が泳ぐのを見る。

 

プールが好きな子もいれば、苦手な子もいる。

 

水の中なのにへらへらと笑ったり、猛者は水の中なのにしゃべったりして、あっという間に水をたくさん飲む。

でも、なんとなく楽しそうで面白がっていて、不思議なことに彼らは浮いている。

 

真面目な子は、泳ごう泳ごうと思うあまり、力が入り、みるみるうちに溺れる。

一度溺れかけると、恐怖心が芽生える。

慎重になって、ままならなくなる。

 

生きていくのも同じこと。

力を入れすぎてはうまくいかない。

 

ゆっくり息を吸って、吐く。

力を抜いて。

隙を与えて。