嗅覚

今夏、私の嗅覚は人生最大に研ぎ澄まされていた。

そして、研ぎ澄まされただけでなく、狂ったように稼働していた。

 

知りたいことも、知らないほうが幸せなことも、知った。

知ったというと、受動的にきこえるがそうではない。

厳密にいうと、知りに行った。調べ上げた。

能動的に知ったのだ。

 

そして、知る度に、自分の嗅覚のえげつなさにドン引いた。

相手を脅かすつもりもない。何か起こしてやろうとも思わない。

ただただ知りたいだけ。

 

いずれにしても、私は私のことを敵に回したくないなと思う。

私だけは敵には、したくない。

発熱

たかだか、2・3度体温が上昇したくらいのことで、私は考えられなくなる。

なんて、やわなんだろう。

 

それはとても怖いことだ。

考えないということは、活きていないということだ。

 

考えているから私は生きている。

考えているから私は活きている。

 

私は生きたい。

生きている間は、できるだけ活きたい。

 

 

悩み相談や恋愛トークをする人々の間では、

とかく「考えすぎやって」「もう考えんのやめ」

みたいな助言とも、苦言ともみえる言葉が発せられている。

 

考えることをやめたら、生きている価値なんてほぼないに等しい。

 

思考の方向は様々あれど、考えることだけはやめてはならない。

 

 

「考えるな、感じろ」というそうだが、

感じるならば、感じたことを考えるべきだし、

そもそも何も考えていない人は感じることなんてできない。

 

私は生きるために考えたい。

あなたは?

縮図

歯科医院で患者としての立ち居振る舞いを考えることはあらゆることの縮図だなと思う。 

 

予約の取り方然り。

キャンセルの仕方然り。

待合室での待ち方然り、座り位置然り。

具合の伝え方然り。

セカンドオピニオン然り。

歯の高さとか合わせちゃうこと然り。

どうでしょう?と問われた時の答え方然り。

目を瞑るタイミング然り。

うがいの仕方然り。

痛みを訴える手の上げ方然り。

車窓

大学に通っていた頃、私は電車通学をしていた。

 

ある日、夕暮れがとても美しく、車窓から西の空をうっとりと眺めていた。

「ああ、世界の終わりのような夕暮れだなあ」

思った矢先、四人席に座っていたおばちゃん二人が言った。

「明日もきっといい天気になるわね」

 

はっとした。

私はこの世の終わりを思い、彼女らは明日を思う。

この違いは何なのだ。

私の抱くこの終わりに向かう気持ちはどうなっているのだ。

 

きっと、彼女らの方が多数派で、正しい。

きっと、私の方が歪んでいる。

でも、どちらも間違ってはいない。

 

私は歪んだこの終わりに向かう気持ちを抱いて生きていくのだろう。

 

 

 

そんな歪んだ決心を思い起こさせた今日の夕暮れ。

ドーパミン

日常に潜む小さな幸せと

非日常に顔を出す大きな幸せ。

 

心地よい音楽。声。会話。文章、言葉。眠り。

美味しい食事。紅茶。ジンジャーエール。少しのお酒。

臨時収入。入浴。

 

旅行。誰かと猛烈に通じ合う時。愛を得ること。

 

 

大きいから素晴らしいということもなく、

小さいから無駄ということもない。

 

それなのに、大きい幸せを求めて、悲しい気持ちになったり、

小さい幸せの小ささに「なんてちっちゃい」と嘆いたりして、

幸せを感じられなくなるようではドーパミンは分泌されなくなってしまう。