不透明人間

透明人間について、話がしたい。

 

透明人間について考えられる時は心穏やかな時だ。

 

人々は、透明人間のことをもっと想像すべきだと思う。

こんなに膨らむ想像はそうはない。

 

ラーメンズのコントの中でも特に秀逸な『TEXT』に出てくるやりとりが印象深い。

透明人間の存在を証明する、というものだ。

 

はたまた、数年前の祇園笑者でピース又吉氏と天竺鼠川原氏の透明人間に関するやりとりもまた秀逸である。

 

透明人間になったらどうなるのか、ということをあらゆる条件設定を行いながら、ああでもないこうでもないと話し合える人は、語らいという点についての価値観の合致がのぞめるし、この会話が盛り上がらなければ、もうどの会話においても諦めてもよいとまで思っている。

 

さあ、透明人間の話をしよう。

 

パンツをはいて

人は誰かによく思われたい、好かれたい、愛されたいと心に服を着せる。

ある人は着飾ることがとても得意だったり、ある人はとても薄着、またある人はとても厚着だったりもする。

時にその服は鎧となり、時にその服は武器にもなる。

 

私は、その服を脱がすのがとても得意。

 

いつの間にか、相手は丸裸になっている。

そして、実は、多くの相手は裸になった事実に気が付いていない。

もしくは気が付いていても、恥ずかしげもなく裸族として平然と過ごそうとする。

どんなに格好悪くても、無様でも、その裸を晒すことに抵抗がなくなる。

 

丸裸の自分を受け入れられることほど幸せな話はない。

どんなに醜くても、非道でも、うすよごれていても、一度脱いでしまえば、丸裸の道が拓ける。

 

そのうち、よそ行きが必要だという時にも、裸で出かけようとしたり、よれたシャツでサンダルをひっかけたりするようになる。

ドレスコードなんてどうでもよくなる。

 

そして、もう服を着ることも億劫になって、いつの間にか気がつけばクローゼットの中は空っぽになる。

 

私のために着飾る服を失う。

 

いつだって自然体。

それはお前が望んだことでは?飾らない自分をも好きだったのでは?と全裸で主張を始める。

 

ストリップを見るように、時に煽りながら面白がって脱がせたのは私。

どんな姿でも、例え引いていても分かったような顔をして受け入れたのは私。

裸で受け入れ合うことこそが理解し合うことに繋がると思っていた。

 

でも、それは違っていた。

 

人はせめてパンツを履いてなくてはいけない。

裸になれば分かり合えるというものではない。

節度が大事なのだ。

ドレスコードはルールではなく配慮事項だ。

裸になるのはベッドの中でいい。

 

愛している男には、部屋着を着ていてほしい。

せめて、パンツを履いてほしい。

最悪、バスタオル1枚、葉っぱ1枚でもいい。

どんな裸の相手でも受け入れる。

だが、パンツを履こうと思う気持ちを忘れないでほしい。

 

愛されたい男には、私も部屋着で化粧していると勘付かせないくらいのナチュラルメイクで接したい。

 

丸裸ではなく。

 

 

丸裸ではなく。 

 

 

 

私が美術館好きだと知ると、芸術を語りたいおじさんが集まってくる。

 

そして、長い長い、さして面白くもない、過去の栄光やら何やらが入り混じった焦点の合わない話を聞く羽目になる。

 

そういう時は心を放ち、慈悲の笑みをうっすらと浮かべながら、時が過ぎるのを待つ。

 

すると、おじさんはこぞって言う。

「おとなしいんだね」

 

となると、悩ましいのは、これを否定するかどうか。

「おとなしくなんかないですよ」と、思うつぼにみすみす立ち入るのか、静かに微笑んでおとなしくしているか。

 

そもそも、ふさわしい相槌が見つからないだけ。

もしくは、発言すればすべてが終わるような一撃を探しているだけ。

 

 自分の話を静かに聞いてもらうだけで、なぜ相手が「おとなしい」と決めつけるような事態が起こるのだろう。

 

以下、考えられる発言までの経緯

パターン①

・音量的に静かを保てた

・うっすら浮かべた慈悲の微笑みマジック

・程よい相槌で、話を聞いてもらうのがご無沙汰だった

 →よく考えたら、自分しか話していないではないか!

 →結果、会話としての盛り上がりはあったのか?

 →会話が盛り上がらなかったのは「おとなしい」相手のせい

 →「おとなしいね」

 →おとなしいのはそなたのせいです

 

パターン②

・こんな話を聞いてくれるなんて、ありがとう

 →そんな相手に賛辞を!僕なりの大賛辞「おとなしいね」

 →大惨事やぞ、こら

 

気味が悪いほどに、嗅覚をフル稼働させて、何を得ようとしているのか。

何もかもを嗅ぎ付ける頭の悪い野良犬のように。

得るものなんて、もう面白さ以外何も残されてはいないのに。

 

知られたくないことには鍵をかけて。

それが身のため。

 

 

これは警告。

嗅覚

今夏、私の嗅覚は人生最大に研ぎ澄まされていた。

そして、研ぎ澄まされただけでなく、狂ったように稼働していた。

 

知りたいことも、知らないほうが幸せなことも、知った。

知ったというと、受動的にきこえるがそうではない。

厳密にいうと、知りに行った。調べ上げた。

能動的に知ったのだ。

 

そして、知る度に、自分の嗅覚のえげつなさにドン引いた。

相手を脅かすつもりもない。何か起こしてやろうとも思わない。

ただただ知りたいだけ。

 

いずれにしても、私は私のことを敵に回したくないなと思う。

私だけは敵には、したくない。

発熱

たかだか、2・3度体温が上昇したくらいのことで、私は考えられなくなる。

なんて、やわなんだろう。

 

それはとても怖いことだ。

考えないということは、活きていないということだ。

 

考えているから私は生きている。

考えているから私は活きている。

 

私は生きたい。

生きている間は、できるだけ活きたい。

 

 

悩み相談や恋愛トークをする人々の間では、

とかく「考えすぎやって」「もう考えんのやめ」

みたいな助言とも、苦言ともみえる言葉が発せられている。

 

考えることをやめたら、生きている価値なんてほぼないに等しい。

 

思考の方向は様々あれど、考えることだけはやめてはならない。

 

 

「考えるな、感じろ」というそうだが、

感じるならば、感じたことを考えるべきだし、

そもそも何も考えていない人は感じることなんてできない。

 

私は生きるために考えたい。

あなたは?