渇き

誰かの、あるいは、何かの代わりではなく

気を紛らわせるための相手でもなく

ただただ、私を必要とされたい。

 

私が好きな私を愛せ。

禁じ手

禁じ手を使った。

この手だけは使うまいと思っていた。

 

結果、一時的に功を奏しはしたが、

不本意な手段を使う罪悪感は残った。

 

どんな思いでこれまで働いてきたと思うのか。

それが勤めと言い聞かせてきたと思うのか。

 

不本意は巡る。

己で断ち切るしかなく

己で迎え撃つしかない。

 

 

母が鬼なら

私は鬼の子

鬼の子は鬼の子なりに鬼

 

人の気持ちに

揺さぶりをかけ

ふるい分け

 

何が残るか

何が落とされるか

知りたいだけ

 

鬼の鬼たるやを横目に

鬼の子は鬼の子たるやを

見せつける

 

母よ

あなたの子は

毅然と鬼となり

あなたにまで

揺さぶりをかけるようになりました

女なら如何なる時も肝を据えなさいと事あるごとに母から言われてきた。

 

決断が鈍る時、答えを出すのを先延ばしにしたい時、宙ぶらりんのちゃらんぽらんでいたい時は確かにある。

それでも来たるべき時が来れば、己の眼をグワシと開き、人の声に耳を傾けて、物事の本質を見据え、自分で決断をするように教育されてきた。

 

愛する人を疑うこともある。

信じたくてもそうはさせない状況も。

縋り付きたいことだって、泣き喚きたい時だって。

泣いて、怒って、目を瞑ることも確かにある。

 

許すもひとつ。許さないもひとつ。

 

疑うも信じるも自分次第。

 

 

 

いざ! 今がその時。

肝を据えろ。

腹をくくれ。

自分の尻を自分で拭け。

 

 

 

不透明人間

透明人間について、話がしたい。

 

透明人間について考えられる時は心穏やかな時だ。

 

人々は、透明人間のことをもっと想像すべきだと思う。

こんなに膨らむ想像はそうはない。

 

ラーメンズのコントの中でも特に秀逸な『TEXT』に出てくるやりとりが印象深い。

透明人間の存在を証明する、というものだ。

 

はたまた、数年前の祇園笑者でピース又吉氏と天竺鼠川原氏の透明人間に関するやりとりもまた秀逸である。

 

透明人間になったらどうなるのか、ということをあらゆる条件設定を行いながら、ああでもないこうでもないと話し合える人は、語らいという点についての価値観の合致がのぞめるし、この会話が盛り上がらなければ、もうどの会話においても諦めてもよいとまで思っている。

 

さあ、透明人間の話をしよう。

 

パンツをはいて

人は誰かによく思われたい、好かれたい、愛されたいと心に服を着せる。

ある人は着飾ることがとても得意だったり、ある人はとても薄着、またある人はとても厚着だったりもする。

時にその服は鎧となり、時にその服は武器にもなる。

 

私は、その服を脱がすのがとても得意。

 

いつの間にか、相手は丸裸になっている。

そして、実は、多くの相手は裸になった事実に気が付いていない。

もしくは気が付いていても、恥ずかしげもなく裸族として平然と過ごそうとする。

どんなに格好悪くても、無様でも、その裸を晒すことに抵抗がなくなる。

 

丸裸の自分を受け入れられることほど幸せな話はない。

どんなに醜くても、非道でも、うすよごれていても、一度脱いでしまえば、丸裸の道が拓ける。

 

そのうち、よそ行きが必要だという時にも、裸で出かけようとしたり、よれたシャツでサンダルをひっかけたりするようになる。

ドレスコードなんてどうでもよくなる。

 

そして、もう服を着ることも億劫になって、いつの間にか気がつけばクローゼットの中は空っぽになる。

 

私のために着飾る服を失う。

 

いつだって自然体。

それはお前が望んだことでは?飾らない自分をも好きだったのでは?と全裸で主張を始める。

 

ストリップを見るように、時に煽りながら面白がって脱がせたのは私。

どんな姿でも、例え引いていても分かったような顔をして受け入れたのは私。

裸で受け入れ合うことこそが理解し合うことに繋がると思っていた。

 

でも、それは違っていた。

 

人はせめてパンツを履いてなくてはいけない。

裸になれば分かり合えるというものではない。

節度が大事なのだ。

ドレスコードはルールではなく配慮事項だ。

裸になるのはベッドの中でいい。

 

愛している男には、部屋着を着ていてほしい。

せめて、パンツを履いてほしい。

最悪、バスタオル1枚、葉っぱ1枚でもいい。

どんな裸の相手でも受け入れる。

だが、パンツを履こうと思う気持ちを忘れないでほしい。

 

愛されたい男には、私も部屋着で化粧していると勘付かせないくらいのナチュラルメイクで接したい。

 

丸裸ではなく。

 

 

丸裸ではなく。 

 

 

 

おとなしい

私が美術館好きだと知ると、芸術を語りたいおじさんが集まってくる。

 

そして、長い長い、さして面白くもない、過去の栄光やら何やらが入り混じった焦点の合わない話を聞く羽目になる。

 

そういう時は心を放ち、慈悲の笑みをうっすらと浮かべながら、時が過ぎるのを待つ。

 

すると、おじさんはこぞって言う。

「おとなしいんだね」

 

となると、悩ましいのは、これを否定するかどうか。

「おとなしくなんかないですよ」と、思うつぼにみすみす立ち入るのか、静かに微笑んでおとなしくしているか。

 

そもそも、ふさわしい相槌が見つからないだけ。

もしくは、発言すればすべてが終わるような一撃を探しているだけ。

 

 自分の話を静かに聞いてもらうだけで、なぜ相手が「おとなしい」と決めつけるような事態が起こるのだろう。

 

以下、考えられる発言までの経緯

パターン①

・音量的に静かを保てた

・うっすら浮かべた慈悲の微笑みマジック

・程よい相槌で、話を聞いてもらうのがご無沙汰だった

 →よく考えたら、自分しか話していないではないか!

 →結果、会話としての盛り上がりはあったのか?

 →会話が盛り上がらなかったのは「おとなしい」相手のせい

 →「おとなしいね」

 →おとなしいのはそなたのせいです

 

パターン②

・こんな話を聞いてくれるなんて、ありがとう

 →そんな相手に賛辞を!僕なりの大賛辞「おとなしいね」

 →大惨事やぞ、こら