日々、とてつもなく頑張って働いていた。

 

他の人たちが嫌がりそうな厄介な案件は引き受け、気負ってやっていた。

後輩たちがその程度でいいのかと疎ましく思っていた。

上司は何をしているのかと憤っていた。

 

頑張って、頑張って、息が詰まるほど、頑張っている、そんなつもりになっていた。

 

何から気づかされるか分からないものだなと思う。

『頑張りは本人が誇示するものでなく、周りが評価するもの』

 

 

 

宗教心はほぼないが、仏像を見るのが好きだ。

 

仏像は煩悩の残り方により、四つに分類することができる。

 

煩悩残高ゼロ、悟りを開いた如来

煩悩残高ごく僅か、お洒落欲のみが唯一残ってしまった菩薩。

煩悩残高あり、感情が表情に出やすく、お洒落欲もばりばりの明王

煩悩残高そこそこ、感情剥き出し、邪鬼をこらしめ、全身隈なくお洒落しまくりの天。

 

煩悩の表れとして、 お洒落欲が出てくるというのはとても興味深い。

 

要するに、着飾るということに論点はある。

 

着飾るということは、よく見せるということだ。

周囲の視線を考慮して、人々にどう見られるか、どう思われるか、どう見せたいのか、どう思わせたいのか、ということになる。

そういう心持ちがおそらく煩悩なのだ。

 

だからといって、仏は裸にはならない。

如来であっても、きちんと布を纏っている。

 

裸になること、裸にすること、

着飾ること、着飾らせること。

 

 

 

やれやれ、私は煩悩だらけ。

本当に大事なことは

回線を通して伝えてはいけません

 

照れくさくて伝えにくいことでも

言いわけがましいような気がして話しにくいような気がすることでも

たとえそれが相手を傷つける可能性があっても

相手を追いかけてでも話ができるように

 

嫌われたくなくて言いにくいことでも

それを伝えることで自分に傷を深く負ったとしても

自分の手の内を明かしながらでも話ができるように

 

顔を見て

表情を見て

手が届く距離で

その声で

鼓膜を震わせて

話をせねばなりません

 

捨てられない箱がある。

 

ただの段ボール箱。

 

数年前にかつての恋人からのクリスマスプレゼントが入っていた箱。

彼の丁寧な字で住所や名前が書かれていた箱。

私の手元に渡るまでの箱自体のエピソードがとても可愛かった箱。

その箱のエピソードの可愛らしさが彼の思い出のまばゆさのような気がして、大事にしたいと思っていた。

 

捨てようと思うたび、それを語る彼を思い出し、見るに耐えかね、押し入れの奥の方にそっとしまった。

 

その箱が今、枕元にある。

 

理解している。

これはただの段ボール箱で、この箱を置くことに何の意味もないことも。

この箱は彼ではなく、この箱に情も念もないこと。

ただ、納得していないだけなのだ。

 

終わったこと、と言い聞かせている。

もうすでに2年半も時が経った。

引きずっていないと思いたかった。

 

あの時の彼はもういない。

 

これはただの箱。

ただの空き箱。

 

もう終わったこと。